「強い優しさ」を感じて。

自分に似ている人が集まる、という言葉をどこからか聞いたことがあるが、本当にその通りだ。自分が「この目標に向かって頑張りたい!」と思ったときには、その時に同じような想いを持ち、行動をしている人が周りにいる。

 

僕は現在、学生団体のリーダーをしているが「リーダーとは何か、どういう気持ちを抱くのか」ということが、ちょっとずつではあるが分かってきたような気がしている。その「想い」というものはモノサシみたいに測れるものではないし"到達点"みたいなものはないのだが…

 

そうしてリーダーを現在進行形で経験してる中、たくさんの「リーダー」と呼ばれる人の話を聴いてきた。そこで共通して感じたことを、これから連ねていく。

 

1."強い優しさ"を持っている

まず、どの人にも共通して必ず感じるもの。それは「強い優しさ」である。このような言葉でしか表すことができないが、「強さ」と「優しさ」、相反する2つの感情が同時に存在するというところで「なにかまっすぐに言葉を受け止めれない。なにかもやもやする」という複雑な言葉の感情は感じてもらったのではないかと思う。

 

そう。今まで話を聞いてきたどの人も優しかった。だが、どの人も、その優しさの中に「強さ、儚さ」と呼ばれるものが必ず存在していた。"包み込む優しさ"というものは、とてつもなく弱い「脆さ」というもののの中に含まれているものなんだとつくづく思う。

 

とてつもなく優しくて明るい。けど、ひとつ脆い部分を突いてしまえば、地の底から思い切り崩れてしまうような、そんな強さ。リーダーを経験している人と話すといっても、自分が今までの人生で感じたこと、相手が人生の中のある瞬間に抱いた感情、そういったことをただつらつらと連ねて話しているなんだけれど、どこか心の奥深い「地下」のような場所では密かに分かりあっているのだろうという安心感。必ずそういうものがある。

 

僕はこういった「言葉にならない深く通じあえること」に凄く興味を惹かれるのかもしれないし、求めているのかもしれない。もしくは、人間とは深くは通じあえなくて、このように時間をかけて考えていることも無駄なのかもしれない。でも私は「深く通じ合える」という方に賭けたい。

 

では、どうすればそのように深く通じ合えるのだろうか?

 

2.本当の相互理解とは

僕が所属している学生団体の理念の中にも入っている"相互理解"という言葉は、自分が人生を過ごす中でかなりKeypointになっている。

 

僕が書く記事はみなさんに「答え」を教えるために書いているのではなく、僕の書く文章や問いに自分を結びつけて、"一緒に"考え欲しいということが本質にあるので、ここからは一緒に時々立ち止まりながら考えて欲しい。

 

"相互理解"の基準はどこにあるのだろう


1度文章を読み進めずに自分で考えてみて欲しい。ある程度考えたらもう一度読み始めても大丈夫だ。

 


参考の為にこんな話をしよう。


ある人と話していてこんなに話が出てきた。

○「論理力」と「創造性」はどのように必要か

この2つは相互理解を語る上で欠かせない2つの言葉であろう。

 

今の世の中では、「わかりやすく説明しろ!」「誰も思いつかないようなアイデアを出せ!」そんなことばかりが求められていて、いったい何を求められているのか、どちらを大切にすればいいのかまったく分からない。

 

「大切なんだよ」と教えてくれる人はいるが、どのような瞬間に、どのようにその論理性と創造性を取り扱うのかを教えてくれる人はいない。

 

僕はその話の中で、自分の中でこう結論を出した。


「場面によって論理性と創造性、片方のみしか使わないときもあれば、論理性と創造性の2つを同時に使わないといけないときもある」と。

 

リーダーは論理力ばかり求められる。しかし、言葉にならない、言葉にしたくても"言葉にすることができない"創造力をいかに使うかが大事なのだ。

 

僕は「論理性」と「創造力」をよくこのように例えて話す。

 

論理性=「料理の技術」
創造性=「料理の材料」


この例えは自分自分的に気に入ってるのだが、このように例えると、どちらが必要ということではなく、どちらも必要であり、片方を大事にする瞬間も必要である、ということが良く分かるだろう。

 

「どちらが必要」なのではない。「どちらも不可欠」なのだ。

 

この話を聞いた上で、再び「相互理解」というものに焦点を戻していこう。論理性だけではなく創造性が必要といったが、なぜ必要なのか?私はこう考える。

 

Empathy(共感)するため


共感力が大事とよく言われるが、言葉で説明されてもよく分からなかった。だが、体験して、経験して改めてこのことを大事だと感じた。

 

例えば異文化理解。「こういう立場に置かれてて、こういう不幸があって〜こういう風に大変なんだよね」って本などで言われて、なんとなく辛いのは分かるだろう。「あぁ〜!それは大変で辛いよなぁ!」と。しかし、それは本当の意味で理解しているのだろうか?あなたは「ほんとうのホントに理解しているよ!」と心から言えるだろうか?

 

これを踏まえて、これを読んでいる皆さんには、今度から共感する上でこの言葉を意識してほしい。

 

自分が相手に完全になりきって自分と対話していったときに「深い通じ合い」を感じたか
「その人に入り込む」とでもいうのだろう。


小説のような"物語"がずっと古くから愛されるのはそういう本質や意図が裏に隠されているからではないだろうか。物語というものには、まだまだ言葉にできない不思議な体験が出来る力があると思っているし、いつか言葉に出来ることを望んでいる。。。

 

長い文章でありましたが、読んで頂いてありがとうございます。何かのお役に立てれば嬉しいです。