中身ではなく「容器」に目を向けなさい、

あなたは、『critical thinking』すなわち『批判的思考』を持つことは必要だと思うだろうか?

 

当たり前になっている物は全て"フォーマット化"されていく現代。

 

学校教育や学生団体の活動が典型的な例だろうか。決まりきった変化のない「容器」の"中身"の部分だけが更新される。

 

そう。人々は、慣れきってしまった「容器」には疑問を持たなくなり、容器の中身のみを議論し尽くす。

 

中身の成分はなんだ?どれくらいの割合?

 

といったように

 

どんな企画?何をすれば面白い?

 

という思考回路で止まり、外側にある凝り固まった規則や倫理に目を向けようとしない。

 

学校をテーマとして挙げられる問題も、容器の中身だけを議論している場合がほとんどだ。

 

すべて「学校が」「校長が」「先生が」「親が」「子供が」「教育方法が」としか言わない。学校がそれらの言葉で占められているように。

 

僕は、後輩にこんな質問をされた。

オンラインでどんな内容の企画をしたらみんな来てくれますか?


この思考回路だと"危険"であるとあなたは予測出来るだろうか?

 

「どんな企画内容をするか」に疑問を持つことは間違いではない。しかし、この問いの裏には

 

「どんな企画内容をするか=参加者の人数」


という決まりきった単純な考えをしているのが見て取れるのではないだろうか?僕は他の記事にも書いてあるが、「質問する側」も優れた答えを求めているのであれば責任を持たなければいけない。

 

例えばこの例であれば、企画内容だけでなく「集客方法」にも向けるべきだと考える(あくまで僕が考えるなら、だが)。

 

オンラインで講演やイベントに参加するハードルはかなり高い。イベントに参加する人々の様々なきっかけをぶっ飛ばしているから。

 

学校の問題であってもそうだ。

「学校が」「文部科学省が」そんな意見はほとんど出尽くしている。Twitterや記事で嫌ほど見かけているということは「見える化」されているということだ。

 

数字であれ、目であれ、"直接見える"というのは相当な数の寄せ集めであるから、上の2つの議論を繰り返したところで有用な結論には至らない。

 

容器の中身だけでなく、「容器」自体に疑問を向けれるようになってみてはいかがでしょうか?

 

僕は今大学生で、オンライン授業になって、一緒に授業を受けている人のレポート(教師を目指す人)を見れる機会があったので、全員分読んだのですが、全てただの「教科書の文章の寄せ集め」でしかありませんでした。

 

批判的思考を持てない、容器に目を向けれない人達が教師になるのか?と、怖くなりました。

 

あなたはどう生きていきますか?