ナワバリ人間

20XX年。全ての人間は、AIを通して相手と会話すること、触れることが出来るようになりました。相手は決してこちらを不快にさせるようなことは言いません。こちらの承諾も無くあなたの身体に触れてくることもありません。これまでの長い長い人類史の中で蓄えられてきた膨大な情報を学習したAIが貴方に最適な人を選び出すからです。もう人類は誰一人としていじめられることはないでしょう。だって同じ教室に行かなくてもよくなったからです。もう人類は虐待に苦しむことはないでしょう。だって同じ家の中に住まなくてもよくなったからです。もう人類は嫉妬に苦しむことはないでしょう。だってあなたが恋するあの人はいつでも(AIによって)召喚できるからです。見た目、汗の匂い、手や脚の触感に至るまで、完璧に再現してあります。いままでこれほど性が解放された時代があったでしょうか?素晴らしいですね。正しいことしかない世界、素晴らしいですね。痛みがひとつもない世界、これも大変素晴らしいですね。

 

(先生)「はーい!みなさんいいですか。私たちがいま生きている時代というのは、痛みや不快な感情がひとつも存在しない世界なんですよ〜!」
(児童)「すごーい!」
(生徒)「今からXX年前には人類は学校の教室や会社のオフィス、家の中など年齢や国籍、属性の異なる人々が同じ空間で過ごしていました」
(児童)「え!信じられなーい!」
(児童)「ほんとですか〜!?」
(児童)「そんなのぜったいいやだー!」
(先生)「ほんとですよー!不登校パワハラ、虐待などから戦争に至るまで、様々な問題が未解決なまま残っていました!」
(先生)「そんな人類が発明したのが「ナワバリ」というシステムなんです」
(児童)「ナワバリー?」
(児童)「なにそれー?」
(先生)「人類の悩みの大半は、異なる属性の人々が接触することによって起こるものでしょう?それをAIによって無くしたのです。嫌いな家族も友人も上司も部下も政治家も、AIを通してあなたが不快にならない言葉に変換し、適切なタイミングで接触できます。恋愛も同じです。人類が1000年以上苦しんできた嫉妬の感情にも苦しむ必要はありません。なぜ?AIがあなたを完璧に満たしてくれるからです。人間は接触もせずに生涯、多種多様な鳴き声を発し続けていくことでしょう。分類し名付けて「ナワバリ」を作り、そこから出ない「イヌ」として生きていくことでしょう。」

学校に行って、何を学ぶ

「学校へ行って何を学ぶべきか?」

 

これを読んでいるあなたであれば、どう答えるだろう。

 

僕は、"教師から教えられるもの以外のもの"を学ぶべきだと考える。

 

だからといって、授業を聞かなくていい…というわけでは決してない。学校で教えられることは、"一人で生きていく"ための知識だ。

 

では、なぜ教師から教えられること以外のことを学ぶべきなのか??

 

それは、そこから得た知識は、"自分にしかない気付き"だからだ。

 

教科書に書かれているようなものは、長年人間が「正しい」と思ったものを集めたものにすぎない。1度そこから目を離さなければ、「独創力」が生み出されるわけが無い。

 

 

例えばの話だ。あなたは、学校の「集団行動」は無駄だと思うだろうか。

 

「無駄なんじゃない?」

 

ほんとにそうだろうか。


集団行動で「集団」を意識させられたからこそ、私たちは「個人」というものを意識でき、その結果が今の「個の時代」ではないだろうか。

 

私たち人間は、何かあればすぐ周りの人や、環境のせいにする。

 

しかし、本当に考えるべきことは

 

「"何が"」「"どうやって"」私にそう感じさせたのか?

 

ということだ。

 

他人がいなければ私たちは「孤独」を感じられないように、学校がなければ「個」を意識できないし、社会に出た時に「自由だなぁ」だと認識できないだろう?

 

 

教師は、本当は生徒の「自立」のために、このようなことに気づかせるために、教える専門教科以外にも「問いかけ」を沢山してやるべきなのだ。

 

学校へ依存しないためにも、「こーすればあーなるでしょ?」という単純な思考を止めるのだ。そこから段々「自分らしさ」というものを意識出来る。

#8月31日の夜に

『死にたい』って言うのは、生きることを強く望んでいるから。

 

『認めてほしい』って言うのは、自分が誰かを認めてあげれる人になりたいから。

 

「本当」を言葉にするには、いつだって勇気がいるから。警鐘を鳴らすために、私は、もっとも優しい「嘘」をつく。

 

 

 

ほんの少しだけでいい。ほんの少しだけでいいから、、静かに…。


一斉に口をつぐんで、黙っておくれよ。

 


自分の話じゃなく、他人の話聞いてみてほしい
ほら、鐘の音が聴こえてくる

 


どうか、見える言葉だけで判断を下さないで。
見えない言葉に、私たちの本当の想いを隠しているから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


あぁ。もう少しだけ生きたかったな。

 

直接的な場所

あなたは、人に対して「これは駄目だ!」と相手を説得させる時に、どのようなアプローチをかけるだろう。

 

直接的な言葉だろうか?

間接的な言葉だろうか?

 

これらは、どちらが良いアプローチと言えるのだろうか?

 

例えば"いじめ"。学校では、一応"形状"のいじめ対策をしている。

「ある学校でこんないじめがあったんだぞ。見てて辛いだろ?」「これはNHKのビデオで、こんな有名人もいじめにあってて、発信してるんだぞ?」「じゃあお前らいじめなんか止めろ?」

 

ざっとこんな感じではないだろうか。大学の教職のいじめの授業でも、NHKのビデオを見せられただけだった。

 

有名人が発信しているのは悪いことじゃないし、とっても勇気を貰えることだ。しかし、それを"直接的に見せる"人は、どういう意図を持っているのだろう。これを見て"辛いと感じろ"そう言われてるようにしか見えない。

 

これを真似ろというのか?ここから何を考えさせたいんだ?そう考えざるを得なかった。

 

先生が正しいことを言っているのは分かる。分かるけど、なんとなくスっと受け入れられない。

 

僕が学校のシステムに対してモヤモヤするのもこのせいなのだろうか。

 

そもそもほとんどの先生が

国語は国語の能力を上げるため、数学は数学の能力を上げるため、理科は理科の能力を上げるため、いじめの授業はいじめ防止の対策のため

と、一方向での考えしか持ててないのではないだろうか。

 

それは先生が悪いのではない。学校が"そういうシステムの場所"なのだ。自然と先生はそのシステムに馴染むような人間になってしまう。

 

そういう意味で、学校とは「直接的な場所」なのだ。

 

横断的なカリキュラム云々の前に、学校とは「直接的なシステムで成り立つ場所」であり、そこから横断的にしろと言ったところで(学習指導要領で書かれていたところで)誰に"伝わる"のだろう。

 

本当に伝えたいことを直接的な言葉ではなく、どう間接的に伝えるか。

 

僕はここを大事にして過ごしていきたい。

 

中身ではなく「容器」に目を向けなさい、

あなたは、『critical thinking』すなわち『批判的思考』を持つことは必要だと思うだろうか?

 

当たり前になっている物は全て"フォーマット化"されていく現代。

 

学校教育や学生団体の活動が典型的な例だろうか。決まりきった変化のない「容器」の"中身"の部分だけが更新される。

 

そう。人々は、慣れきってしまった「容器」には疑問を持たなくなり、容器の中身のみを議論し尽くす。

 

中身の成分はなんだ?どれくらいの割合?

 

といったように

 

どんな企画?何をすれば面白い?

 

という思考回路で止まり、外側にある凝り固まった規則や倫理に目を向けようとしない。

 

学校をテーマとして挙げられる問題も、容器の中身だけを議論している場合がほとんどだ。

 

すべて「学校が」「校長が」「先生が」「親が」「子供が」「教育方法が」としか言わない。学校がそれらの言葉で占められているように。

 

僕は、後輩にこんな質問をされた。

オンラインでどんな内容の企画をしたらみんな来てくれますか?


この思考回路だと"危険"であるとあなたは予測出来るだろうか?

 

「どんな企画内容をするか」に疑問を持つことは間違いではない。しかし、この問いの裏には

 

「どんな企画内容をするか=参加者の人数」


という決まりきった単純な考えをしているのが見て取れるのではないだろうか?僕は他の記事にも書いてあるが、「質問する側」も優れた答えを求めているのであれば責任を持たなければいけない。

 

例えばこの例であれば、企画内容だけでなく「集客方法」にも向けるべきだと考える(あくまで僕が考えるなら、だが)。

 

オンラインで講演やイベントに参加するハードルはかなり高い。イベントに参加する人々の様々なきっかけをぶっ飛ばしているから。

 

学校の問題であってもそうだ。

「学校が」「文部科学省が」そんな意見はほとんど出尽くしている。Twitterや記事で嫌ほど見かけているということは「見える化」されているということだ。

 

数字であれ、目であれ、"直接見える"というのは相当な数の寄せ集めであるから、上の2つの議論を繰り返したところで有用な結論には至らない。

 

容器の中身だけでなく、「容器」自体に疑問を向けれるようになってみてはいかがでしょうか?

 

僕は今大学生で、オンライン授業になって、一緒に授業を受けている人のレポート(教師を目指す人)を見れる機会があったので、全員分読んだのですが、全てただの「教科書の文章の寄せ集め」でしかありませんでした。

 

批判的思考を持てない、容器に目を向けれない人達が教師になるのか?と、怖くなりました。

 

あなたはどう生きていきますか?

「責任」を誰にも与えない世界を見よう。

あなたはネガティヴな性格を持っているでしょうか?

 

僕は、凄くネガティヴなのですが、最近ネガティヴを良いものとして捉えることが出来るようになってきたので、もし"ネガティヴ"に苦しんでいる人がいれば参考にしてください!

1.ネガティヴってなに?

**打ち消す内容をもっているさま。否定するようなさま。 **


ググッてみると、このように書いているが、なんとなくイメージしにくいので、僕の性格から「ネガティヴ」はどういう人のことを言うのか紐解いてみる。

 

ちなみに僕はこんな性格。

1.新しい環境に馴染みにくい
2.他人の言葉に敏感
3.ネガティヴな出来事を引きずりやすい
4.他人が悲しい気持ちだと、自分も悲しい気持ちになる
5.向上心や挑戦心が高い


僕は、1年前くらいまではネガティヴな自分の性格が大嫌いでした。新しいことに挑戦するのは好き、だけど、傷つきやすい。

 

自分は挑戦することに向いていないのかな。

そんなことを幾度となく考えていました。挑戦とは、孤独になることでもあって。泣きながら電車に乗って夜道を帰る日もありました。思い出したくなくても、自分の脳裏に染み付いてしまっている記憶です。

 

最初にネガティヴを良いものとして捉えることが出来たとありますが、ネガティヴを克服したと書かないのには理由があります。

 

なぜなら、性格というのは、追加することはできても、無くならないし、変えることも出来ないからです。

 

僕の性格を先程挙げましたが、あの性格は、死ぬまで一生、自分の影のように付いて離れない、ずっと背負っていかないといけないものです。

 

これを読んでいるあなたもそうだと思います。
ネガティヴな性格を克服できたと言う人は1人もいないでしょう。もし居るならば克服できたと意味づけることができただけでしょう。

 

では、どうしたらネガティヴを良いものとして捉えることが出来るかを、次にお話しましょう

 

2.私たちは、どの世界に立つべきか


私たち人間は、物事が2面あったとき、どちらか1面に立とうとしがちである。ということを何度も言ってきました。

 

自分と他人。正義と悪。ポジティブとネガティヴ。

 

この世の中には、色々な「2面性」がありますが、この世界を"2面性"で捉えていては、いつまで経ってもネガティヴからは抜け出せません。

 

特に、「自分の世界」と「他人(他の世界)」という世界の切り離し方は一番ループに入ってしまう思考だと感じています。

 

ネガティヴな性格な人がループにハマって逃げ出せないのは「責任」が1つの大きな原因でしょう。

 

例えば、上にあるような世界の見方では、結果として「自分」か「他人」に責任を押し付けることになります。

 

「こういう行動を起こしたから、あなたは悪で、私は正義なんだよ」


と、辛いことがある度に、このような判断を常に繰り返します。

 

ネガティヴから抜け出すには、責任を、自分も他人も含んだ「世界」に持ってこないといけません。

 

ネガティヴな人は、自分に責任を押しつけがちです。しかし、責任というのは他人にもあるし、その瞬間にも影響があります。

 

例えば、あなたが酷いことを言われたとします。ネガティヴな人であれば、私の悪いと思う部分を探します。しかし、その酷いことを言った人は、本当に私の悪いところだけを指摘しようと怒ってるのでしょうか?

 

その人は、家庭環境が荒れていてストレスが多いのかもしれない。私の言った言葉が、その人の辛い過去と結びついたのかもしれない。こんなことも考えることが出来るはずです。

 

そして、こういう考え方ができると、その酷いことを言った人は「嫌いな人」ではなく「興味のある人」に変わります。「なぜそんな酷いことを浴びせるのか?どんな環境がそうさせたのか?」嫌いな人でも、質問をせずにはいられなくなります。

 

これが、僕がネガティヴを良いものとして捉えることが出来た理由です。


辛いことは、この先も辛いことでしかありません。世界の見方を変えて、ネガティヴを自分にしかない個性として、輝かせましょう!

優れた質問、優れた答え。

『退屈でつまらない答えで申し訳ないけど、退屈でつまらない質問にはそういう答えしか返ってこないんだよ』


米の小説家 Ernest Hemingway があるインタビューで語っていた言葉だ。

 

私は、リーダーという役職柄、"質問"というものと、"答え"というものに自分の意識を向ける日が多くなった。

 

質問をすることは、時によって勇気を必要とすることだ。それは事実で。

 

だが、質問をする側にも、ある種の責任と倫理みたいなものが必要なのではないか?と感じている。

 

どうしても、現代を生きていると

「リーダーであれば、大人であれば、もう高校生なんだし、これくらい答えれるよね?」

 

そんな風潮を、肌身に感じ取ってしまう。

 

どれだけ優れた答えを用意していようと、優れた問いを用意しておかないと、その答えは出てこない。

 

答えだけでなく、質問に目を向けよう。