『意識』に導かれし私たち。

『無意識』と『意識』。

 

私たちは、『意識』の時代に住んでいるのではないか。

 

ふと、そう思う時がある。

 

巫女や王様。昔は、避雷針のように神から与えられる情報を受信し、民に伝え、それに従って民は無意識に動く。そんな時代であった。

 

しかし、現在は絶対的に"信頼"できるものがなくなり、個人に頼るしかなくなった。つまり、『意識』せざるを得なくなった。

 

もちろん、完全に『意識』の世界になった訳ではなく、『無意識』の世界も混在している。
ただ、現在では、それが少なくなっているのではないか?という疑問がある。

 

評価を気にしたり、論理性のみに頼ったり。
そうではなく、たまには無意識に過ごしてみるのも必要なんだろう。

 

そして、それを担うものは、小説のような「物語」であるような気がする。

 

本を読みながらこんなことを考えた今日。

もう何もすることない!病

「やりがいの搾取」

 

僕が、一番コロナウイルスで被害を受けたと思うことがこれだ。

 

僕は国際交流の団体のリーダーをしているのだが、皆のやりがいが搾取され過ぎて困っている。

 

例えば、SNS
なぜコロナ禍でSNSの返信が遅れる人が多いのだろうと自分なりに考えてみた。そうすると、このような結論が出た。

 

SNSしかコミュニケーションツールがない

小規模のグループで、仲がいいグループであれば「すぐに返そう!」となるのだが、それが何十個もあると「返すのだるい😔」となってしまう。

 

必死にSNS以外の方法を探してみるのだけど、やはりSNSしかないという真理に辿り着いてしまう。

 

また、それ故に情報も多く流れてくる。情報をめげずに吸収出来たものが、自分を変えるきっかけを持ち、吸収出来なかったものは、どんどん周りに置いていかれる。

 

挑戦出来ないものは、置いていかれる。

 

これはコロナになってから気付いたことではない。コロナになる前から、自分は「みんなの挑戦をもっと繋げるべきだ!共有するべきだ!」と強く主張して来た。

 

コロナウイルスが流行っても、褪せない「軸」を立てることができた。つまり、その団体の中で「どんな環境でも大切なものは何か?」ということを、批判されながらも一生懸命考え続けた結果だと思う。

 

国際交流団体でありがちなのは、日本人同士の交流の機会を疎遠にすること。これは、大変もったいないことだ。

 

あなたは外国に何を求めるだろうか?


もし、「新しい価値観を得るため」などと言っているなら、もう一度自分の住む国を、周りの人々をいつも以上に詳しく見て欲しい。

 

同じ日本に住んでいるからといって、同じ価値観や常識は通じない。

 

説明しなくても分かるだろう。


別に新しい価値観を得るために外国へ行くことを否定している訳ではない。それは本当に外国に行かないといけないのか?このことを、もう一度深く自問自答して欲しい。

 

そして今、僕の所属する団体では、まだこのことに多くの人が気付けていない。

 

コロナで外国へ行けなくなり、プログラムが相次いで中止になり、「もう何もすることない」病にかかっている。

 

僕はリーダーとして、一瞬でも早く皆に真理に辿り着くようアプローチし続けるつもりだ。

 

あなたは「何もすることない」と嘆いていないだろうか?本当に、今すべきことは失われてしまったのだろうか?


ぜひあなたの答えを、持って過ごして下さい

本ってどういう時に読む?

みなさん本はどのように読むでしょうか?

 

僕が一番効果的だと思うのは、色んな物事に挑戦したり行動した時、自分の力じゃ足りないと思った時に、そこに関連した本を読むと一番効果があると思っています!

 

でも、それは啓発本に限りで、小説などは、読むタイミングや状況は選ばないです!

 

啓発本は、量を増やしたとしてもどんどん昔に読んだ本は忘れてしまうので、読むタイミングを選ぶのが良いでしょうね。

 

 

 

みんなはどういう時に読みますか?

分からないを分かる勇気

「自分が何者か分からない」

「自分には何もできない」

「勉強しているけど理解出来ない」

 

若い人達は、こういった問題に悩む。そして、大人達も分かったふりをしているが、単に忘れただけである。大人は「学生」に変わる「肩書き」というものを手に入れたに過ぎない。

 

なぜ学生の間に「自分とは何か?」という壁に深く閉ざされるのだろうか?

 

ぼくは、「学校」が1つの原因だと考える。学校では「理解した」ということが、評価の大きな分かれ目となる。

 

何が得意で何が不得意か。
何が理解できて何が理解出来ないか。

 

そんなことばかり気にしないといけない環境の中で、学生が悩むのは当たり前のことではないだろうか。「分かる」が美徳とされる世の中では、「分からない」人は冷たい視線を受ける。

 

「分かる」はそんなにかっこいいことだろうか?


こんなことを考えて欲しい。


「分かる」ということは、「分からない」という物事を相反して同時に存在"させている"のだ。"作り出している"と言った方が正しいだろうか。

 

「分かる」と口に出した瞬間、あなたは「分かる」「分からない」という、物事の2面のうち片方の面に立つことになる。

 

このことが危険性を孕んでいることを、あなたは感じ取れるだろうか?

 

物事が2面性を持ってしまうと、必ず相手側が"敵"であると認識してしまう。

 

「大人と子供」
「男性と女性」
「正義と悪」

 

挙げていくとキリが無い。それほど2面性を持つ言葉の組み合わせは、世の中に無数に存在するのだ。

 

「分かる」という言葉が存在すれば「分からない」という言葉が存在するように、一方の言葉が存在すれば、もう一方の言葉も必ず存在する。

 

もし、これを読んでいる人の中で
「学校に行きたくない」「自分が何者か分からない」「自分には何も出来ない」「死にたい」
と思ってる人がいれば、次にいう言葉を胸に留めておいて欲しい。

 

「分からない」ことを、分かる方が勇気がいる
あなたの周りにには、あなたの気持ちが分かったかのように「辛かったね…」「辛いのはあなただけじゃないよ」などという言葉を浴びせる人"も"いるかもしれない(もちろん優しい人もいます)

 

しかし、「分からない」に気づいているあなたの方がよっぽど強い。

 

周りの大人は「分かったつもり」なだけだ。

 

「分かる」に"逃げて"いるのだ。
逃げて強がっているだけの人達だ。

 

最後に、「分からない」ことに気付く為の秘策をあなたに伝授しよう!それは……

 

問い=「対話」すること


である。

 

「コミュニケーションが上手くなる!」的な本は沢山読んできたが1冊も役に立たなかった。そして、自分が経験して気付いたことがこれだった。

 

相手の想いを引き出す質問力を身につける

そして、自分の想いを引き出してくれる相手を見つけることが大切だ。100人友達がいた所で、質問力を引き出してくれる友達がいないのなら、関わり方の意識を変えるべきだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ここまで読んでくれて、ありがとう😊

「自分軸」と「相手軸」

「相手軸」ではなく、「自分軸」で生きるにはどうすればよいか? 

 

生きていて1度はこの問題にぶち当たるのではないだろうか。自分にもやりたいことがあるのに、いつの間にか相手の言う通りに進んでしまい、不甲斐ないまま物事が進む。

 

僕がどのような場面で「軸」を意識するようになったか?


それは、とある学生団体で1週間に1度のペースで企画&司会運営をしていた時だ。企画というものは、やはり自分のやりたいことをやっているだけでは参加者のニーズを満たせない。

 

これは、団体の目標や理念にもよると思っている。目標や理念が大きい程、会員の求めるものは幅広いものとなり、「自分のしたいこと」と「他の人がしたいこと」のギャップが拡大していくだろう。

 

話を展開していく前に、結論から言っておこう。

 

「自分軸」を生きる=自分の人生の中で必要な物の優先順位を決める


ということだ。


「自分軸で生きる」ということは、決して「相手軸を無視する」ということではないことを、念頭に置いてほしい。

 

「嫌われる勇気」
ぼくの大好きな本だ。もちろん「他人の評価は気にしない!」「別に嫌われてもいい」という意思を持っておくのは大事なことだ。


1度、自分軸だけで生きてみるといいのだが、自分軸だけで生きると「1人では生きていけない」という所に必ず辿り着く。

 

僕は「孤独」を苦に思わないし、人に興味を持つこともなかった。そのように人生を過ごしていたが、いざ人と沢山関わるようになると、人が好きになる。僕はディスカッションを趣味にしている変な人なのだが、ディスカッションをしていると嫌でも他人が必要だと認めざるを得ない。

 

少し脱線したが、なぜ優先順位を決めることが必要なのか、それを説明しよう。

 

"交渉"においても言える事だが、自分のやりたい事だけを相手に押し付け続けることは不可能で、必ず相手に譲歩しないといけない部分がでてくる。しょうがないことだ。

 

だから"自分の譲れるもの"を作っておくのが、人生にしても、やりたい企画を後悔なく進める上でも大事なのである。

 

「そんなの知識をつけて論理力でやり通せる」
と思うだろうか?

 

そもそもの大前提として、あなたも人間であり、相手も人間なのだ。論破して相手を丸め込もうとして得られるものは、ただの「支配」だ。

 

もし、これから自分軸を決めるのであれば、自分の行動の優先順位を紙に記録していて欲しい。最初から完璧に自分の優先順位を把握出来る人はいない。まずは"記録"するという行動自体が意味を持つ。

 

そして、相手によって「自分軸」は変わる。


先程も言ったように、自分軸とは譲れるものを作ることだ。自分の中の"絶対に崩れないもの"が崩されなければ、「相手の言う通りに行動してしまった」などと後悔することもない。

さあ。自分の人生を生きよう。


最後に、有名なスティーブ・ジョブズのSpeechの文章を紹介する。

 

Your time is limited, so don't waste it living someone else's life. Don't be trapped by dogma — which is living with the results of other people's thinking. Don't let the noise of others' opinions drown out your own inner voice. And most important, have the courage to follow your heart and intuition. They somehow already know what you truly want to become. Everything else is secondary.

人はそれぞれ盲点を持ち合わせている

私たち人間は、誰しも「盲点」を持ち合わせている。

 

盲点とは「視神経乳頭(ししんけいにゅうとう)」にある、視神経が集まって、束になっているところだ。視神経乳頭には光を感じる細胞(視細胞)がないので、この部分に集まった光は、信号として 脳まで届かない。だから、脳では「見えない」と判断される。

 

例えば、長年付き合っている親友が居て「お互い分かりあっている」と思っても、必ずそこには「盲点」があり、見落としてしまっているものがある。

 

ここで、「分かりあっている」ということについて、自分なりに考察してみる。

 

⑴長年同じ場所にいる時間が長い。
⑵同じような辛い経験をしてきた
⑶話のリズム


⑴長年同じ場所にいる時間が長い
やはり人間というものは、長い時間経過の中で共に過ごした人物に、安心感を覚えるのではないかと僕は思う。自分自身と長い時間を過ごしたいと思ってくれている。だから自分も相手にその"好意"を返さないとな…と無意識の中で、思っているのではないだろうか。

 

長い時間を共に過ごしても、必ず盲点というものは存在する。

 

あなたが、あるマンションの1室に同棲している中年の夫婦であったとする。長い時間経過を共にするということは、幸せなようで時には残酷なもので、「相手に足りない部分」をどうしても探してしまう。

 

他の異性との関係がある。家事をしない。子育てを手伝ってくれない。自分の部屋から出てこない。

 

このようにまだ言葉に出来るものならばいいのだが、自分が久しぶりパートナーに求めるのは大抵言葉にできない、さらに深い"何か"である方が可能性は高い。

 

⑵同じように辛いことを経験してきた
「伝える」を「伝わる」にする作業は、かなり難しい作業であって、その中で、自分だけではなく相手も同じ経験をしている、という所における信頼は大きいと感じる。


この記事に書いている通り、同じ立場を経験した人とは「言葉にならない深い繋がり」を、コミュニケーションをとる前に凄く感じる。やはり、対話以前に、自分が様々なことに思うままに挑戦し、経験していくことは大切なんだろう。「同じ職業」じゃなくてもいい。「同じ状況」であれば、そういった繋がりを感じることができる。「孤独」とか。「孤立」とか。

 

⑶話のリズム
やはり、人間だからどうしても「話のリズムが合わない」という人が存在する。逆にコミュニケーションをとる前から、「話すテンポや表情の取り方や出し方が上手だ」と感嘆してしまう人も存在する。

 

それはなぜだろうか。

 

①声が好きー「声」は各個人が生まれ持っているものであり、ヘリウムガスでも吸わない限り変えようがない。だからこそ「嫌い」云々言っても、相手の方は改善の仕様がないのだが、やはり「声」というものは大事なものだとつくづく思う。

 

普段の生活では、意識でもしない限り「声」について考える機会はあまりないのではないだろうか?だが、意識を一度向けてみると、なかなか面白く感慨深いものがある。

 

「この人は、あまり力強い声ではないけれど、その奥にしっかりとした軸をもっているな」とか「聞いているだけで元気が出る声だな」とか「可愛い声だな」とか、「声」だけでその人の中にあるイメージを膨らますことができる。

 

僕は生まれ持ったものなのか分からないが、普通の男性の平均よりもかなり高い声質を持っている。初めはコンプレックスだった自分の声が、自分の世界や物語を広げるきっかけとなる。「話が上手い」というだけでは、対話は長く続かないのではないだろうか?一人の人間だけでも一生のうちに完全に理解できるか分からない。そんな中で「聴覚」に刺激を与える

 

「声」というものは、対話にとっても、話すリズムにとっても、必要なものであろう。

 

②自分を「演じる」-名俳優・名女優でもないかぎり、コミュニケーションをとる時に、相手の人が演じているか、演じていないかは、嫌というほど全身で感じ取ってしまう。必要な場面で、必要な自分を演じることはもちろんあるが、コミュニケーションをとる際にそういう雰囲気を感じ取ってしまうとなかなかやりにくい。

 

だが、人間というものはやはり、整合性のないものに惹かれるもので、その人の裏にある「背景」を探ろうとする。なぜ自分を演じるのか、なにがきっかけであなたをそうさせたのか、聞き出したいと思う。

 

あとは、やはり、このように自分で会話し続けていても、自分が求めているものにはたどり着かない。だからこそ、人は人を求める。

 

#8月31日の夜に。 - NHK ハートネットTV「生きるのがつらい」「学校へ行きたくない」そんな10代の皆さんが気持ちを吐き出し、共有できる場を目指しています。www.nhk.or.jp


僕がこんなにも「対話」に惹かれたのは、このテレビ番組が大きな影響を与えたからだ。「正しい答えはない」-ということをコロナのおかげで気づけたはずなのに、いまだにテレビのニュースでは「答え」を求め続けたような情報やコメントが飛び交うし、SNSの誹謗中傷は止まらない。僕はコロナになってから、ニュースは全く見なくなった。辛い人へ向けて発信されている情報が、本当に辛い人へ届かない。

 

僕はこのテレビ番組を見てから「ゴールを目指す」という表現はあまり好まないようになった。なぜかというと、あまりに「縦の関係」で物事を見ているから。本当は「縦の関係」で見るのではなく、ある一点が真ん中にあり、その点から色んな物事や性質が矢印として飛び交っている。そして円を形作る。そんな見方で、世界を見るようになったら、心は大分楽になった。

 

聴いているだけだが、心が整理される。

 

この番組は、とてもそんな要素が強い。ここで書いているのは「番組」だけれど、私たちも、こういった人を求めているから、「対話」し続けたいと、心の底からそう思うのだろう。

良い質問は熟成される。

つまらない学校の授業。つまらない、興味もない人間の自慢話。

 

大学生になって振り返ってみると、学校は僕にとって何も有益なことを教えてくれる場所ではなかった。僕は、「小説」から様々な物事を学んだのだが、それはまた別の機会に語ることにする。

 

そんなつまらない、記憶にもない学校の授業の中で、3年間経っても鮮明に、授業の内容や、授業でされた質問を覚えている、というそういう授業があった。

 

記憶に残る…だけではない。

 

僕は、その先生の授業がきっかけで、現在在学している大学の学部に進むことになった(ちなみにその先生は化学の先生である。いつも白衣を身にまとっており、僕はその姿にとても魅了されていた)

 

そう。高校3年生の時に、その先生の授業を受けて、僕は大学3年生。つまり3年も経っている。それは紛れもない事実なのだが、この記事を書いているこの瞬間も、その先生が授業で僕にした質問を、鮮明に言葉として繰り返すことができる。

 

あなたには、そういう授業があるだろうか。

 

その先生がどんな授業をしていたのか、僕の覚えている限りのことを記述しよう。

 

その先生は、とにかく「質問」を多用している人だった。答えをすぐに言わないのがお決まりで、習っていない範囲だとしても、容赦なく質問を飛ばす。

 

「〜くん。どう?」みたいな感じで。

 

予習をしないとその質問に答えられないから、必死に予習をした。よく学校や塾は、何の根拠もなしに「復讐をしろ」だの、「予習をしろ」だの、無理やり言ってくるが、そんな"強制的"なものではない。

 

予習をすることを、自然に求めている自分がいる。

 

その先生の質問に答えることができるようにしたい。その一心だけだ。その先生の1つの質問に対する答えに、生徒はただならぬ努力をする。

 


「質問を飛ばしているだけじゃないか」

 

そう思うだろうか?
これは、決して学校の授業だけに言える話ではない。それがあなたに分かるだろうか。

 

あなたが、人と会話しているとき、一番その相手に興味を持ち、尊敬を持っていることを表すものは「質問」そのものなのだ。自分のことをベラベラと話すのでもない。ただ聴くだけでもない。

 

だが、ただ聴くこともできない人がいるのだから、聴ける人は充分すごい。でも、そこから「自分らしさ」を出すには、「質問」が大きな"鍵"となるということを、損は無いので、知って置いてほしい。

 

"良い質問は、熟成される"


僕が今回皆さんに伝えたいことはこういうことだ。良い質問は、その人の中でずっと残っていく、すなわち、熟成していくのだ。

その先生にされた質問はずっと残る。そのことが、試験の際にとっても役立ったことを覚えている。

 

ヨーロッパの教育でも、対話というものがとっても重要になっている。別に、取り入れろ、と言ってるわけではない。それは、形が既に合わないと分かっているジグソーパズルの空白に、無理やりピースを当てはめるようなものだからだ。

 

〜が必要だ!と、よく本に書かれてある言葉で説明する人がいるが、それはしっかり自分の中で熟成されて出た言葉なのであろうか?

 

悪意のない"正義"が、一番役に立たない。

 

自分のことをどう話すか、ではなく、相手にどんな質問を飛ばすか。これからそういったことをみんなで考えていこうじゃないか。

ぜひこちらもご参考までに👇👇
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